「やった!」と思うのと同時に「えっ、いきなりかよ」と、CMの中で鶴になって叫ぶ某女優と同じ心境でしたね、実は。この仕事が決まった瞬間のことです。それもつかの間、今はすっかりガーナの片田舎でこの地の農業開発に浸かっている、といったところでしょうか。
お陰で、久しぶりに「アフリカの農業支援」をじっくりと考えられる環境に身を置くことになりました。アフリカへの支援のあり方についてはそれこそ議論百出でしょうが、少なくとも他の途上国地域とのギャップ、あるいはアフリカ国内でも都市部と農村部とのギャップが色々な面で広がっていることは紛れもない現実です。つまりこれまでの開発支援のあり方では、少なくともアフリカに対しては「だめ」なんだ、ということではないかと私は考えています。一方で、いやいや、支援があったからこの程度のギャップですんでいる、援助だけの責任ではない、という意見もあるようですが。
過去45年間で先進国からアフリカに投入された援助資金は6,000億ドル、アフリカ人一人あたりにすると年間28ドル、2006年サブサハラアフリカだけを見るとその額は52ドルにも達するというデータがあります。多いか少ないかは別にして、それだけのお金がアフリカの人々のために有効利用されているか、といえば「ノー」と考える人は多くなるのかもしれません。
そうした統計数字はともかく、ガーナで最貧困州といわれるこの地に来て仕事を始めてみると、哀れに感じる気持ちが湧き上がってきます。政府にお金がない。政府職員の給与もとてもそれだけでは生活できないレベルです(それがあるだけましな方なのかもしれませんが)。でもそれ以外、プロジェクトを実施する予算がない。ガソリン代もない。つまりドナー頼みでしかほとんど開発事業はできない、ということです。そしてそのドナーの意図ややり方にいわば翻弄されている彼らの現状が「哀れ」と感じさせるのです。
やれキャパシティビルディングとか、パーティシパトリィとか、ジェンダーとか、ガバナンスとか、モダリティとか、時代とともに言葉を変えつつ、次々と横文字が押し寄せてくる。しかもドナーによって、自国の納税者への説明責任という言葉の下、意図ややり方は実にさまざま。それでも支援を受ける側としてはそれを唯々諾々と受け入れざるを得ない。お金がない立場の辛さとは思いますが、これが哀れという以外にどんな表現があてはまるのか。何もこうした状態はアフリカに限ったことではないのでしょうが、久しぶりに「アフリカ」を身近にした今、なぜかそんな想いを強くしています。
「エコノミック・ヒットマン」という本を読むと、途上国を途上国のままにしておくように画策し、しかしそれを巧みな理論操作で表には出さず、さも途上国の役に立っているとアピールをしつつ、(たちの悪い)援助を続ける先進国の一面が描かれています。これはこれで事実のような気が私はしていますが、まあそこまで極端に意図的ではないにせよ、我々援助をする側の人間としては、はたして本当に、こうして翻弄され続けているアフリカの人々の役に立っているのだろうか、質の良い協力をしているのだろうか、これまでの私自身を振り返り、自戒をこめて思わざるを得ない心境にあります。少なくとも今のプロジェクトに関わっているガーナの政府職員はみんなとても真剣で一生懸命で、それだけになおさらその思いを強くします。なんとかこの涙ぐましい状態を変えることはできないのか。もっとましなやり方はないのか。究極的には「コンサルタント」として何ができて、何をしなくてはならないのか。何をしてはならないのか。
私たちコンサルタントとは、「仲介者」として、あるいは「中立的な立場の人間」として、資金提供者(クライアント)と受益者の間をつなぐ存在、と私は考えています。したがってどちらの立場も等しく大切にしなくてはならない立場のはずです。つまり私たちは、資金提供者の意図を理解して、受益者の人々にとって真に役立つようなオプションを提案し実行してもらうことが仕事だと思います。クライアントはクライアントなりに、例えば今回のガーナの仕事では、この地の農業開発が進むようにしてほしい、農業開発とは具体的には農民の収入が向上すること、それを実現するように考えてほしい、という意図があり、しかも今回は農業生産だけではなく流通面も含めて、また農作物だけではなく家畜や農業加工品も対象によく考えてほしい、という要請があるわけです。それを受けて、あとは地域をよく調べて現状や問題点を整理し、地元の人々の能力やニーズに見合ったやり方を提示する、それもいくつかオプションを提示して気に入ったものを選んでもらう、そしてそうした絵を実際に彼らに実行してもらい、成果を出してもらう、というところまでを実現しなくてはならない。それを可能にするのが、唯一私たちコンサルタントという存在ではないでしょうか。
ただ実際には現状や問題点の把握もきちんとできていなければ、彼らが本当に欲している絵を描けていないコンサルタントも多いように感じます。できていなければ、それは自己満足でしかない。自己満足かどうか、それは我々が去った後も活動が続いているかどうかで判断できる、つまりいわゆるサステナビリティがあるかどうか次第ではないかと思います。もし彼らが欲するもの、役に立つものであったならば、誰もいなくとも彼ら自身がそのまま続けていくわけです。それを、お金がたくさんかかったり、難しい技術を入れようとするからあえて「サステナビリティ」と言い続けなければならない。サステナビリティをどうやって確保するのか、と考えざるを得なくなった時点ですでにそのやり方は行き詰まることが見えているということです。私がこの稼業に足を踏み入れてからずっとこのことが続いているように感じます。そんな支援の仕方をしているからいつまでたっても「だめ」なんだ...
それではどんな支援が望ましいのか-人は自立心があれば自ら伸びようとするはずです。「援助とは自立を支援すること」だと考えますし、外国人としての私たちは、自立したいと強く思う人たちに注目して彼らを側面から支援することが役割ではないでしょうか。公平性という言葉にとらわれず、伸びたい人を支援する、伸びたくない人はそっとそのままにしておいてあげる、という見方が必要だということです。「そんなことを言っても、こんな厳しい環境で自立心が育つか!やる気があるのにできない人がたくさんいるのにそれを見捨てて良いのか!」という怒りの声もあがるかもしれませんね。それならば、援助を通じて自立心の高い人を発掘し育てるような支援をする、そして彼らが中心となってその地域全体の発展を担えるような仕組みづくりを支援する、という考え方をすれば受け入れやすいのではないでしょうか。そこまでやってあげて、そのあとはあなた達でしっかりやってね、で任せるということです。私たちコンサルタントは人以上に知っているわけではない。そうした外国人としての限界を認めながら、決して我々の(特に横文字の)価値観を押し付けるのではなく、途上国の人々が自ら自立に向える、ほんの少しのきっかけづくりをお手伝いする、という謙虚な気持ちで支援に臨む気持ちが必要だと考えています。
さてそんなことを考えていると、私は今ODAの仕事でガーナにきているわけですが、途上国の人々にとって支援者は何もODAでなくても構わないわけです。我々コンサルタントとしては誰であれ支援者(資金提供者)の意図をくみ取り、あと細かいことはお任せください、短い時間で効率よく必要十分な調査をし、しかも受益者が満足するような事業を提示あるいは実行します、そしてそれが長期間継続するような形を考えます。それは私たちがしっかりとやりますから、なぜあえて途上国に支援したいのか、あなたたちの意図は明確にしておいてください...
資金提供者それぞれに思惑があるのは当然です。ODAであればポリティックスから離れて考えることはできませんし、民間企業であれば利益、NGOであれば理念、といったことが動機になることが多いのではないでしょうか。コンサルタントとして、そうしたクライアントの思惑の違いを乗り越えて、最後には受けた仕事の成果を出し、そして資金提供者にも受益者にも喜んでもらえる、それが私たちの役割であり、仕事冥利に尽きると感じる時でなはいでしょうか。
そして、そうした何らかの意図を持ち資金提供となり得る者を発掘して途上国に結びつける仕組みづくりの一端を担うことも、きっとこれからのコンサルタントとしての新しい役割なのではないかと考えています。KMCでもCSR事業のほか社会起業家支援というテーマでの活動も考えています。要は、新しい支援の仕方を創造する、あるいは導入するという大きな役割が出てきたということです。グラミン銀行が世の中に評価されているのは、そうした意味からだと感じます。このガーナの地でどこまでできるのか、そうしたことも少しずつチャレンジしていきたいと考えていて、実はちょっと楽しみにしています。乞うご期待を。